[ほぼ毎週金曜日更新] アイアムアヒーローについての考察


説得についての考察

81話は藪が全人格をかけて目白と交渉し説得した回です。




英雄、伊浦、ブライ、黒沢の一行は、サンゴをリーダーに食糧奪取のために地上に降りました。比呂美に手足を折られた目白だけが、藪の見張り係として屋上に残されています。

反抗勢力と目された藪は、比呂美と手錠で繋がれ、行動の自由を奪われた状態です。手錠はおそらく警官であろう伊浦のものだったのでしょう。

比呂美の容体を診た藪は、このままでは危ないと病院に連れて行くことを決意します。目白に言われるまでも無く、病院がすでに機能していないことは藪も先刻承知でしょう。しかし病院の機材があれば、彼女の看護師としての知識と技術で比呂美を治療できるだろうと判断したわけです。

比呂美を「人類の希望になるかもしれない」「絶対に守る」と決意していた藪にとってこれは当然の判断でした。

一方、目白にとっては二人が立ち去るのをみすみす見逃すわけにはゆきません。彼の唯一の武器であった腕力を失った今、「見張り番」としの役割すら果たせなかったとなれば、屋上支配層での彼の存在意義が問われます。文字通り、生きるか死ぬかという意味での存在意義です。

目白が見張り用に持たされていたボウガンの命中度の高さ、殺傷力は、倒れた比呂美の姿を見ても明らかです。また、比呂美を背負った藪が機敏にボウガンから放たれた釘を交わせるはずもありません。

したがって藪がこの場を脱出するためには、目白を言葉で説き伏せる以外の術はありません。

藪の交渉が始まります。まずは嘆願です。「病院に行くから、見逃してくんない?」
当然ながら、目白は言下にこれを却下します。

古今東西の映画や小説で、ぎりぎりの交渉シーンは常に見せ場となってきました。テロリストや強盗との人質を巡る交換条件、マフィアや企業同士の存続をかけた交渉、あるいは男女の駆け引きも。そこでは法律で強制的に結論を出してくれるような第三者は存在しません。当事者同士の駆け引きがすべてです。交渉の結果は、いかに相手を納得させる材料を出せるかにかかっています。

ここで藪の出せる条件はなんでしょうか?金や社会的地位で無いのは明らかです。屋上で自由を奪われた藪にそんなものはありません。そもそも秩序の崩壊した社会では、金も地位もすでに無用の長物となっています(自販機に使うための小銭を除いては)。

女としての武器、肉体を差し出すという条件も、すでに藪を「性処理の道具」としていた目白には何の意味もありません。したがってここで藪の出せる唯一の条件は、目白の安全を保障することしかありません。それが唯一の取引材料です。

当然藪もその結論に至り、目白に提案します。しかし、やはり目白はこれを受け入れません。約束の守られる保障のない社会では、取引は同時交換が原則です。人質だけ先に開放する誘拐魔も、金だけ先に払う家族もいないでしょう。誰も信じられなくなっている目白にとって、先に藪を自由にする選択はあり得ないのです。

藪自身はと言えば、「その後あんたを拾う」と言った時点での気持ちに、おそらく嘘はなかったでしょう。しかし目白に「信じられるものなんて、もうこの世にはない」と返され、冷静に状況を考え直します。

駐車場までたどり着くだけでも ZQN の巣をくぐり抜けて行く必要があります。再度引き返して来るならば、リスクは倍です。仮に戻って来れたとして、どうやって目白をかついでハシゴを降りることができるでしょうか?現実問題として、目白を救う手段など残っていないことに藪は思い至ります。そしてあっさりとそれを認めます。

この時点で藪の取引材料は消えました。そう思えました。

しかし藪は意外な提案をします。目白に、余命が残されていないことを認めさせたうえで、最期の言葉を聞き取ろうという提案です。

これは、取引材料としてはもうこれ以上役に立たないものはなさそうなほど弱い材料です。散々暴力で弱者を支配し、強面に振る舞ってきた男が、このような軟弱な提案に乗るものでしょうか?

しかし藪の言葉を聞いた瞬間、目白の心の鎧はくだけ散りました。目白は藪の言葉にすがりつきます。

ここで、夢についての考察の目白編に戻ってみましょう。半感染状態で直観力の鋭敏になった比呂美は、目白の心の脆弱さ・虚弱さを感じ取っていました。目白の心は傍若無人な振る舞いに見合わぬほどの弱さを秘めていたわけです。屋上の過酷な状況の中で、目白の心はすがりつくべき何かを欲していました。




「誰かに言い残すことはないか?」と尋ねたときの藪には、すでに交渉しようという意思も無かったのかもしれません。目白の行く末を見切った上での、慈悲の言葉であったからこそ目白の心に響いたのかもしれません。

「お母・・・」と言いかけた目白の言葉は、歓迎すべからざる闖入者によって中断します。彼が何を言い残そうとしたのかは不明です。しかし彼も、この状況で、実際に藪に言い残した言葉が母に伝わるとは思ってはいないでしょう。母への想いこそが、目白の藪に伝えたかったすべてだったはずです。

その意味で「お母・・・」とつぶやいただけで目白の目的は達せられたと言えます。言い換えればこの時が、彼の最期の想いを預かった藪が、彼にとっては命に懸けても守るべき存在になった瞬間です。

したがって、藪を襲う寸前の陸上 ZQN を、身を挺しておびき寄せた行為も、彼にとっては当然の選択でした。

さて、この 81 話で私が一番驚いたのは最後のページです。ZQN に襲われる目白を後目に、足早に立ち去る藪を描いたシーンです。

藪の心の中では、犠牲になってくれた目白を思い、彼との約束を果たすべく、目白が最期に遺した言葉を胸に刻みつけているはずです。

しかしそういった描写はここでは一切省かれています。通常ならここぞとばかり力を入れて描くシーンでしょう。それが、藪の表情すら描かれず、その半身の後ろ姿でこのエピソードが終わったのは衝撃でした。

アイアムアヒーローに限らず、花沢作品に共通する特徴として、派手な決め台詞やアクションシーンでは大駒・見開きページを連発するのに、作者が読者に伝えたいと思っているはずの微妙な心の揺れや葛藤は、常にその片鱗を描くだけであとは読者の想像力に委ねられています。

それが作者のポリシーなのか、あるいは含羞ゆえなのかは私にはわかりません。しかしこうした描写に、私はいつも最高にシビれるのです。

※記事中の画像は花沢健吾『アイアムアヒーロー』(小学館)単行本より

(2013/05/24 22:19 投稿)